彼女はそれも手伝わなければならなかった。穏和な性格の彼女が、イライラして些細なことでカツとなることもあった。そのイライラにはもう一つ大きな原因があった。その頃再び大きな仕事を得るためのチャンスが巡ってきていた。大阪万博から十五年後の昭和六十年(一九八五)に開催予定だった、日本で三度目の万博、科学万博「つくば稲」のさるパビリオンの仕事である。このとき彼女は、子供たちをベビーシッターに預けて、あちこち運動に飛び回っていた。しかしこの仕事は、事前に九九パーセントの確率で私どもに決定と言われていたのに、結局は得ることができなかった。科学万博のパビリオンコンペにどんな力が働いたのかは、何も言うまい。すべては私の責任である。子供たちとの大切な時間を犠牲にしてまで、私を手伝っていたのだから、彼女は相当っらかつただろう。あるときこんなことを言ったことがあった。「お仲人をしてくださった生田先生の奥様が、「建築家の奥さんになるなんて割りが悪いわよ」って、初めてお会いしたときおっしゃったの。私はまだなんにも知らなかったから、どういう意味だかわからなかったけれど、あれは本当に手向けの言葉だったのね」。